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The great wooden torii at the entrance to the Uji Bridge over the Isuzu River, at the Inner Shrine (Naiku) of Ise Jingu
日本の仕組み著者 Kei · 日本生まれ、日本育ち更新 15 分で読める

伊勢神宮は行く価値ある?旅行者と日本の参拝者が語る、日本でいちばん神聖な社の本当のところ

伊勢神宮は、どこかへ向かう「ついで」に立ち寄れる場所ではありません。三重の奥まったところにあって、ゴールデンルートからも外れていて、しかもいちばん行きやすいのはジャパン・レール・パスの効かない私鉄(近鉄)。だから多くの人は、行く前にとても現実的な問いを立てます。「わざわざ寄り道する価値、あるのかな?」と。そして、読むと手が止まる一文に出会います。日本でいちばん神聖な社なのに、肝心のお社そのものは見られない、と。正宮は高い板垣がいくえにも連なるその奥に建っていて、参拝者は白い絹の御幌(みとばり)が掛かった門前で頭を下げます。近づけるのはそこまでです。「結局、塀の前に立つために、こんなに遠くまで来るの?」そう感じてしまうのも無理はありません。

先に結論を書きます。はい。ただし「見どころをひとつ消化する」ためではありません。がっかりしたと感じたわずかな旅行者は、建物を見に来て、見た分だけ得をしたいと思っていた人です。一方で伊勢を宝物のように大切に思う人(実際に足を運んだ人のほとんどがそうなのですが)は、別のものを目当てに来ています。森、手をすすぐ川、参道を歩く時間、外に広がる温かい古い町並み、そしてただそこに「在る」という静かな営み。伊勢は、見て回るための場所というより、しばらく身を置くための場所です。

行く価値はある?(旅行者自身の言葉で)

伊勢への旅を、迷いながら検討した、あるいは実際にやり遂げた海外の旅行者たちの声を集めてみました。問いはいたってシンプルです。「結局、行ってよかった?」。それぞれの声が他の読者にどれだけ強く響いたかで重みづけすると、その分かれ方はこうなりました。

行く価値あり:森と川と巡礼が心をつかんだ
60%
行き方しだい:時間を選び、ゆっくり、あてのない寄り道にしない
38%
この人には合わなかった:社は隠れていて、見るものが足りない
2%
これらの声について:Reddit上の海外の旅行者たちが、伊勢神宮への訪問を検討したり振り返ったりした声です。55の声(外国人)を、それぞれがどれだけ強く共感を呼んだかで重みづけすると、この割合に分かれました。声を集めたものであり、アンケート調査ではありません。反応の数が表示されていない声は、そのまま1件として数えています。

まず赤いバーに目を向けてください。ほとんど存在していません。旅行者およそ50人に1人くらいです。伊勢について人がひそかに恐れているのは「見ることすらできない社まで、長い寄り道をするはめになる」ということ。けれど実際に行った人で、そう感じた人はほとんどいません。

次に、真ん中の大きな帯を見てください。ここに集まっているのは迷いの声です。中身を読むと、同じいくつかの問いが何度も繰り返し聞こえてきます。「泊まらずに日帰りで伊勢に行くのって、ありかな?」 「丸一日を埋めるだけの見どころはある?」 「大阪から日帰りって、本当に現実的?」。伊勢をめぐる問いは、最初から「良いところかどうか」ではありませんでした。いつだって「寄り道する価値はあるか、そして一日のどれくらいを割くか」だったのです。「行くべきか」に見えて、実は「どう行くか」の話です。

そして、あの有名な“引っかかり”(内宮は見られない、というもの)を持ち出す人たちも、そのほとんどが、そのすぐあとで自分から答えを書いています。「内宮はあまり見られない」とある人は書いています。「でも森の中を歩いて、外宮のあたりを眺めることはできる」。別の人はこう言います。「正宮は塀の奥に隠れている。あまりに神聖だから見ることが許されないんだ。とはいえ、見事な境内で、そこら中に巨大な古い杉の木が立っている」。但し書きを書く人は、たいていその場で見方も添えています。

たった一つの赤い声でさえ、じっくり読む価値があります。この声が、読む人を二つに分けてくれるからです。その声の主は、毎年10月に伊勢へ巡礼している人で、それでいて正直にこう言います。「神聖さゆえにほとんどが隠されていて、森もたいていの観光客にとってはそれを埋め合わせるほど壮大でも大きくもない……伊勢は、とても微妙な収穫のために、たくさんの時間と労力がかかる。神道について学ぶことに本当に夢中、という人でないかぎり、自信を持っておすすめするのは難しい」。この一段落に、伊勢で評価が割れる理由が全部入っています。その「微妙なもの」を目当てに来た人は満たされ、見返りを求めて来た人は物足りなく感じます。しかも、どちらのタイプ向きかまで書いてくれています。

伊勢がよかったという人たちも、同じ但し書きを添えています。「この社が印象的なのは、おもに境内の広さと静けさのおかげ」とある人は書きました。「息をのむような建物を期待してはいけないけれど」。「ここのお社は、日本で見られる中でいちばん壮麗というわけじゃない。でもその歴史、控えめさ、立地は、自分にとっては行く価値があった」。そして、いちばん飾り気のない結論は、往復にほぼ一日を費やした人からのものです。「日本の旅でいちばんよかったのがここでした。弟と二人で、たどり着くのにほぼ一日かかって……そして、まったくもって報われた」。

日本の人たちはどう感じているか

寄り道の損得だけを考えていると、すっかり抜け落ちるものがあります。それは、まさにその「見えない社」について、日本の参拝者たちが自分のレビューで語っていることです。

大切な場所:何度でも訪れる巡礼
83%
時と心しだい:夜明けに行き、敬いの気持ちで過ごす
17%
正直、がっかりした
0%
これらの声について:内宮・外宮、そしてその門前の町について、日本の参拝者・旅人が自分のじゃらんレビューで語った声です。98の声(日本人)を、それぞれがどれだけ強く共感を呼んだかで重みづけすると、この割合に分かれました。声を集めたものであり、アンケート調査ではありません。反応の数が表示されていない声は、そのまま1件として数えています。

赤いバーを見てください。98件の日本人の口コミで、赤はゼロのままです。がっかりして帰った人は、ただの一人もいなかったのです。この違いがいちばん大事なところです。そしてそれは、日本の参拝者が気むずかしくないからではなく、そもそも誰一人として「寄り道の損得勘定」をしに来ていないからです。そもそも「行く価値があるか」を考えていません。日本の参拝者にとって伊勢はお伊勢参り、巡礼であり、しばしば一生に一度の旅です。「ようやく伊勢にお参りできるまで、六十八年かかりました。社の中で感じた厳かさは、それまで味わったことのない感覚でした」。「長年の願いが、かなって……『一生に一度』というより、二度でも三度でも行こう、と思いました」。そんなものを、損得で正当化したりはしないのです。

いちばん腑に落ちるのが、次の一文です。外国人旅行者が「がっかりポイント」として挙げる、まさにその事実について、日本の参拝者が語った言葉です。「神社に行くといつもは写真を撮るのですが、ここでは撮影が許されていませんでした。神様の威厳を感じました」。同じ塀。同じ決まり。損得勘定をしている旅行者には、それは何も見られないと読めます。けれど参拝者にとっては、その「見えないこと」こそが本質なのです。伊勢では、神聖なものを見ることが敬いではありませんでした。ある参拝者は、その感覚をこう率直に言い表しています。「鳥居をくぐった瞬間、自然と背筋が伸びるのを感じます」。

それを大切にする大多数の人は、まったく写真には写らない部分のために、何度でも戻ってきます:玉砂利、杉並木、川。「毎年お参りに来ています。玉砂利の音と心地よい風が、心を清めてくれるように感じます」。「何度訪れても、気持ちが新たになって、よし、また頑張ろう、と思えるのです」。そして、そのあとの町歩きを惜しむ人もいません。「お社で手を合わせてお祈りして、それからおかげ横丁を歩いて、赤福と伊勢うどんを食べて、その雰囲気をたっぷり味わいました」。

本音のとがった部分が顔を出すとしても、それはすべてあの真ん中の帯の中にあり、もっぱらタイミングだけの話です。「朝でも、以前より人出が激しくて。明るくなり始めたくらいの時間に行くのがいちばんだと思います」。「午前の遅い時間にはもう満車の駐車場もあったので、早めに出発するのがおすすめです」。問われているのは、いつも「いつ行くか」だけです。

伊勢神宮で、素木の鳥居の下、両側を森に囲まれた玉砂利の参道を歩いていく参拝者たち
日本の参拝者が何度も戻ってくる理由として語るもの:玉砂利の音、森、そして歩くこと自体Photo by 江戸村のとくぞう / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

見えないものの話

そもそも見せないように造ってあります。これは意図であって、欠けているわけではありません。 正宮は石段を上がりきった先、いくえもの飾り気のない板垣の奥に建っています。参拝者は白い絹の御幌が掛かった門前で頭を下げます。その向こうには、立ち入ることも撮影することもできない庭があり、さらに奥には、誰の目にも触れることなく祀られているとされる神聖な鏡があります。そして建物そのものも、もし見られたなら、その飾り気のなさに驚くはずです。塗りのない檜(ひのき)、茅葺きの屋根、地面にまっすぐ立てられた柱。朱色もなく、金もなく、彫られた龍もない。漆塗りで金色に輝く京都のお寺から来たばかりだと、その慎ましさは「ここには何もない」と読めてしまうかもしれません。でも、実はその逆。これは、まったく別の美しさが完成している姿です。この素木(しらき)は、敬いの表れであって、予算の都合ではありません。

社のかたわらには、白い玉砂利の何もない長方形の区画があります。伊勢でいちばん大切なものでありながら、そのまま通り過ぎてしまいやすいものです。 掃き清められ、垣に囲まれて待っているその敷地は、二十年前にお社が建っていた場所であり、そしてこれから二十年後にふたたびお社が建つ場所です。二十年ごとに、およそ十三世紀ものあいだ、正宮はすっかり建て替えられ、その隣の敷地に新しく建てられてきました。その儀式が「式年遷宮(しきねんせんぐう)」です。直近の、第六十二回は2013年。次は、2033年に神様を新しい御殿へとお遷しします。この考え方を「常若(とこわか)」といい、永遠に新しいという思想のもと、建物・宝物・そして技そのものを、保存にとどまらず更新を重ねながら次代へつないできました。狙いは、建物を「残す」ことではありませんでした。「知恵と技」を絶やさず受け継ぐことだったのです。継ぎ手を刻みながら技を覚える宮大工の手から手へ、生きたまま受け継がれていきます。こうして、その技がふたたび実践されるまでの間隔が、けっして二十年を超えないようにしているのです。(檜さえも、その計画の一部です。神宮は一世紀前に、二百年先の建て替えのための森を植え始めました。)建て替えの時期に合わせて旅を計画すれば、世界でもっとも古い建物のひとつが、まっさらに建てられていく様子を見ることができます。

社の前の通りこそ、「完成した巡礼」そのものです。後から取って付けた観光客向けの仕掛けではありません。 橋を渡って戻ると、静けさが一転して、温かなにぎわいになります。おはらい町(門前の古い町並み)と、おかげ横丁と呼ばれる屋台の小路。焼き串の香り、黒っぽいつゆの伊勢うどんの匂い、そして三百年ものあいだこの社の近くで人々が買い求めてきた赤福、やわらかい餡(あん)の餅の香りが漂います。江戸のころ、伊勢への旅は一生に一度の旅で、道沿いの町々は、自らの感謝の「お供え」として、旅人をしばしば無償でもてなし、宿を貸しました。ここでは、お参りと道中の温かさは、けっして別々のものではなかったのです。だから、社でのお参りを終えて、温かいものと甘いものを求めて通りへ踏み出すとき、そこまでで、お参りはひととおり終わります。昔からそうやって締めくくられてきました。

伊勢の石畳の通りに面した、老舗の赤福の茶屋の黒っぽい木の外観と金色の看板
橋を渡って門前の通りへ:おはらい町に建つ、古い赤福の茶屋Photo by Fred Cherrygarden / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

喜ばれる伊勢の楽しみ方

ここまでの話をまとめると、「塀までの長い寄り道」だったはずの訪問を、一生忘れられない訪問に変える、いくつかの心がけになります。

  • 早く行きましょう。その静けさを味わいに行くのだと思ってください。 境内は早く、夜明けごろから開きます。その時間に来た人たちは、一日が混み合い始める前の、ほとんど人のいない静けさを語ります。「日の出前にお参りしました。真っ暗な中でも、それでも大勢の人がお参りしていて――別の意味で、身も心も引き締まりました」。午前の遅い時間には駐車場が埋まり、参道は混み合います。とくに週末や祝日は混雑します。目当ての静けさに出会えるのは、やはり夜明けです。
  • 外宮を先に、それから内宮へ。 ならわしとして、まず外宮から始め、有名な内宮へは後から向かいます。およそ千五百年ものあいだ神様の食事を整えてきた豊受(とようけ)の神に先にご挨拶してから、主祭神である天照大御神のもとへ。厳密な決まりはありませんが、これが古くからのやり方で、多くの日本の参拝者が「これが正しい順番」と書き添えています。両宮はバスで二十分とかからずに結ばれています(歩いて行ける距離ではありません)。外宮では参道の左側を、内宮では右側を歩きましょう。
  • 半日から丸一日をあて、三つすべてを。 ある常連は率直にこう言います。「同じ日に外宮・内宮・おはらい町を最低でも回らないなら、たぶん旅を無駄にしている」。多くの人は、名古屋・大阪・京都から近鉄線で伊勢に着きます。これはジャパン・レール・パスの効かない私鉄で、誰もが頭の中でする「寄り道の損得勘定」の一部でもあります。できれば伊勢や近くの鳥羽に拠点を構えて、詰め込みすぎないこと。「伊勢は急いだり、無理に押し込んだりするべきじゃない――ゆっくり味わう、本当に美しい場所だから」。
  • 川で手をすすぎましょう。 内宮の宇治橋を渡った先、森の参道は下って五十鈴川(いすずがわ)へとつながります。石の手水鉢の代わりに、澄んだ冷たい水のほとりにかがんで、そこで手を清めることができます。何世紀ものあいだ人々がこの川辺で行ってきた、小さな所作です。
  • 橋の前で一礼、石段を上がったら感謝を。 多くの人は、日常の世界と神聖な世界の境を示す宇治橋に足を踏み入れる前に、立ち止まって軽く頭を下げます。正宮では二拝二拍手一拝で。正宮は、伝統的に感謝を捧げる場所です(個人的な願いごとは、境内の別のお社で)。どなたでもお参りできます。
  • 石段から先は、カメラをしまいましょう。 撮影は正宮の石段の下までです。あなたが求めてやって来た、張りつめた厳かな静けさは、その場のみんなが「それを大切にしよう」と選ぶことでできています。そして、ある日本の参拝者が気づいたように、撮らないと決めたところから、あの感覚が始まります。

行く価値はあるのでしょうか? もし、写真に撮れる「建物」と寄り道を天秤にかけているなら、伊勢は分が悪いでしょう。同じように感じる人もいます。ただし、あなたが恐れるよりずっと少なく、旅行者およそ50人に1人くらい。けれど、この国が何世紀ものあいだそうしてきたやり方で来てみてください。森と川を見に、見えない社に頭を下げに、そして三百年続く通りを歩きに。そうすれば、なぜある人が、ここに立つために六十八年も待ち、そして「それまで知らなかった感覚だった」と言いながら帰っていくのか、きっと分かるはずです。


短い日程で、どこを優先するか迷っていたら、まずは日本で本当に大切なことから。外宮から宇治橋、五十鈴川、そして正宮のかたわらで待つ何もない区画まで、章ごとにたどる道のりは、すぐ下の伊勢神宮オーディオガイドでどうぞ。

参考資料

WMJSは日本人が英語で書き、AIの力を借りて日本語にしています。日本人の目で確かめていますが、翻訳の癖が残っている文があるかもしれません。気になる一文があれば教えてください。一文で十分です。

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